■トピックス後日談■
ヒト多能性幹細胞(ES細胞・iPS細胞)と新薬開発及び再生医療への応用
ヒトの胚性幹細胞株(ES細胞株)および,それとほぼ同じ性質を持つ細胞株を体細胞の初期化によって作成した人工多能性幹細胞株(iPS細胞株)の研究は急速に進展すると共に,それらの応用に関しては2種類の目的で発展している.
最初の目的は創薬分野である.新薬を開発する際には,対象とする病気で影響を受けた細胞に似た疾患モデル細胞をES細胞やiPS細胞から細胞分化により作成して,多種類の化合物から治療薬候補をスクリーニングすることが既に創薬企業などにより世界中で始まっており,新薬開発で重要な役割を果たすことになる.それに加えて,新薬候補化合物が心臓や肝臓などに毒性を示すことが分かると,新薬開発を中断するか,副作用を無くすために別の類似化合物に変更する必要がある.このような毒性・安全性試験の為に,ES細胞やiPS細胞から心筋や肝細胞を作成して,新薬の安全性を高める為の活用が始まっている.特にiPS細胞の場合には,様々な病気や体質をもつ人間から同じゲノムを持つ細胞株を樹立できるので,多種類の性質をもつ細胞で新薬候補をテストすることが可能になる.この目的のために,米国や欧州および日本で,多種類の疾患患者から樹立されたiPS細胞株を収集,保存して利用者に分配するための細胞バンクが構築され,研究者や創薬企業の研究開発に利用されるシステムが作られている.
次の応用目的は,病気の治療に効果がある各種細胞をES細胞株やiPS細胞株から作成して,これらの細胞を必要な臓器部位に移植して治療する細胞治療であり,再生医療に含まれる.この応用領域で最も進展しているのは,網膜変性疾患と脊髄損傷と1型糖尿病に対する細胞治療であり,米国などにおいては各々について網膜色素細胞,オリゴデンドログリア細胞,インスリン産生細胞をES細胞株から生産して,患者の疾患部位に移植する治験(臨床試験)を既に5年以上続けており,安全性確認や治療効果が見られたなど良好な結果を得ている.このような治験が今後成功すれば,これら難病の細胞治療が実現することになるので,大きな期待を集めている.更に,ES細胞だけでなく,iPS細胞を用いる細胞治療についても,日本などで初期的な臨床研究が始まっている.
このように,ES細胞やiPS細胞を用いた細胞治療(再生医療)が大きな期待を集めているが,果たしてどの程度の実用化が成功するかについては,いくつかの課題が残っており,まだ確実ではない.第一の問題は,これら多能性幹細胞株におけるゲノム変異やエピゲノム異常である.そもそも,細胞分裂を繰り返した細胞株ではゲノムの突然変異が起きることは必然的であり,癌遺伝子などの高リスク変異の有無については継続的な検査と選別が必要である.そしてゲノムが同一であっても異なる働きをするエピゲノムに関しては,一旦分化した体細胞を初期化して作るiPS細胞株では完全に初期化するのが今のところ困難であり,分化細胞のエピゲノムが一部残存することによる異常が指摘されている.第二の問題は,治療コストが高くなるという予想である.治療に必要な大量の細胞生産は,従来の治療薬としての化合物の大量生産に比較して遥かに高コストであることに加えて,細胞株や細胞製品の品質管理は,化合物の品質管理と比較して遥かに複雑で高コストである.したがって,細胞治療に比較してコスト抑制や品質管理が容易と考えられる遺伝子治療や,さらには従来型の薬剤化合物による治療が可能であれば,後者のほうが多数患者への低価格治療として実用化に適していると考えられる.
【 中辻憲夫(2018年2月)】
参考文献
中辻憲夫:「幹細胞と再生医療」丸善出版 サイエンス・パレット(2015年).
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